2021年 10月 11日

志式神社2 福岡県福岡市東区奈多

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志式神社(ししきじんじゃ)
 神功(じんぐう)皇后三韓(さんかん)進軍の折此(こ)の奈多浜に鎮座(ちんざ)される荒(あら)ぶる神の御前にて戦捷(せんしょう)の神楽(かぐら)を奏して征途(せいと)につかれた、此の所を神楽岸又は躍坂(おどりざか)と伝え当時神功の料理に奉仕した祖先の意志が受けつがれ今日の早魚(はやま)神事として伝承される。
 古(いにしえ)は三郎天神と称(たた)え後に志々岐(ししき)三郎天神と称えたのは志々岐の三郎が勧請合祀(かんじょうごうし)した故であろう、明治の代に至り志式神社と改称される祭神は火明神(ほあかりのみこと)、火酢芹神(ほすせりのみこと)、豊玉姫神(とよためひめのみこと)、十域別神(ときわけのみこと)、稚武王(わかたけのみこ)、葉山姫神(はやまひめのみこと)で火難、盗難、難産を免(まぬが)れ家運を開く神として広く世に知られる。
 正徳(しょうとく)五年正月、寫書(しゃしょ)の「奈多浦志々岐大明神之事」に、聖武(しょうむ)天皇の御宇観世音寺建立に当りご本尊を中華の國(くに)より運ぶ折、此の奈多沖にて急に大時化(おおしけ)に会い肥前の國五島の志々岐大明神を船中に勧請し祈願した所無事皈國(きこく)することが出来た。その後奈多の吹上浜に斯(こ)の社(やしろ)を建てその横に四尺三寸五分三尺六寸厚さ二寸二分の金の台座の上に赤銅の阿弥陀仏像を祭ったが、天正(てんしょう)十二年岩屋陣の戦の時島津兵が此の像を盗み皈(かえ)り后(のち)に刀の鍔(つば)に改鋳(かいちゅう)した。之が今日伝わる筑前の阿弥陀鍔の由来である。
 此の由緒ある神社を永久に世に伝え限りなき神徳を氏子崇敬者(うじこすうけいしゃ)と共に讃(たた)えむ。(志式神社記より)


福岡市東区役所/奈多校区自治協議会

社頭設置説明碑



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社叢の樹冠
画面下へ移動で社殿、摂社、浜からの参道、樹々。

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奈多志式神社 亀石伝説

 奈多志式神社に奉納されている亀石について、奈多では、志賀村と奈多村の境、今の海の中道に在る、亀が池、亀栖池から出土し亀石として、志賀海神社と何ら関係があるのでは、との話が残っている。志賀海神社には、亀石二体が遙拝所に奉納されており、その伝えるところによれば、『神功皇后、三韓出征の折、軍議を凝らしていると、雄、雌の亀に乗った志賀神と勝間神が、干珠(かんじゅ)、満珠(まんじゅ)の宝を持って現れ、皇后に渡された。皇后は、この亀を近くの亀が池、亀栖池に放たれた。その後皇后出征の折、安曇の磯良神、龍宮より現れ、兵船の梶執りなどして海上の導となり、皇后は、無事三韓を平治する事ができた。』と云う伝説が伝わっている。一六七〇年寛文一〇年四月二日、雄雌二体の亀石が、金印公園辺りで発見されるにおよび、伝説の亀が現れたとして、志賀海神社に祀られた。
 そこで志式神社の亀石について、文献、伝承等調べたが、未だその由来は定かでないが、もしかすると磯良神が乗っておられた亀ではないか、と今に伝えられている。
志式神社では、「海上安全」、「幸運を呼ぶ亀石」として、ここに納められ地域住民から崇められている。




浜からの参道


奈多の浜へ続く道、画面移動で左手に浜からの神社入り口、鳥居。

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奈多の浜

More:Googleフォト 志式神社

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2021.09.23
福岡県福岡市東区奈多



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by sora07jp2000 | 2021-10-11 03:59 | 神社 | Comments(0)


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