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伊弉諾大神伊弉册大神軻遇槌大神
景行天皇平定より八年後(西暦七十九年)熊襲征伐のため入国した日本武尊は土豪大兄彦が献じた御神器の弓矢をこの地に鎮祭した。玉体を近くに守り給うとの意をしって近津大神と称し、又戦に千度勝つようにとの願いをこめて千勝社とも呼ぶ。 主祭神の伊弉諾命、伊弉册命は健康長寿の神として又軻遇槌大神は火の神として昔より多くの人たちの信仰を集めている。 境内には直方藩主黒田長清の歌碑や当地名発祥の源となった十堂像も祀られている。 社殿は慶長元年(一五九六)雷火のため焼失寛文十三年(一六七三)に再建されその大正十四年現在の神殿・拝殿を新築した。
軻遇突智命、伊弉諾尊、伊弉册命、蛭子命、素盞嗚命、高龗神、罔象女命、闇龗神
続風土記録書上略に曰く、応永元年巳末(附記応永元年は甲戌の年なり)社殿を改築し其の後天正年中高取城主毛利鎭實再造大内家より粕屋郡津屋崎郷篠口竝に大友家より水田三十五町六反寄付ありし感帳あり、明治五年十一月三日村社に被定。素盞嗚命は字西尾に須賀神社として祭祀したるも明治四十年四月二十二日許可を受け本社に合祀す。高龗神、罔象女命、闇龗神は字貴船に無格社貴船神社として祭祀ありしを明治四十三年五月二十四日本社へ合併許可。当社の由緒略記に挙ぐる所に依れば旧記に千勝社、三野權現等の別号あり社地は大字頓野の中央に在り。上古は神が浦と云ひしを後世亀倉と云ひ、明治以来其一地角十堂の地名を公称す。当社の創始は今を距る千八百年前即ち人皇十二代景行天皇御宇日本武尊熊襲討伐として御入国の時福智山に登り給ひ平国の御弓矢を以て玉体御守護の霊たる事代主命を新察せられ、土豪大兄彦と云ふ人臺命を蒙り神器の御弓矢を奉じて此地に鎮祭ありしより、玉体を近く守り給ふの意にて近津宮と称し千たび勝つの意にて千勝社と呼ぶと云ふ、身命の長寿、武運の強盛を守り給ふ外に温和円満の御神容を以て福縁を守り給へば世に恵比須神と尊び奉る。則ち本社東殿の御神位に在らせ給ふ、次に頓野小野牟田の西なる高津の森の地は帝国開拓の大祖、日本民族の根元たる伊弉諾、伊弉册尊が豊前彦山に留り給ふ初めに於て御降臨ありし縁地を以て十三代成務天皇の代に御顕現に依り筑紫国造田道麿始て此地に高津小野の宮を造立せられ御神伝の玉と鏡に国造護身の鉾を取副へ御神体として奉安せられ。其後四十代天武天皇御宇に大宰総領三野太郎王が国人に令し御社殿再興ありて別に三野宮とも称するに至る、然るに頓野西方の低地部は上古玄海の潮勢に侵されしが星霜経るに従い漸く退き其社地のみ沼澤芦葭の間に残りて神域に適せざりしかば今を去る千二百年前、四十五代聖武天皇御宇天平九年春に太宰太貳藤原宇合郷が神威に感じて高津小野宮を近津宮に合併し特に黄金の御神体を鋳造して此山に納め社殿を改造して治国安民祈願所の宣旨を下し賜ひ天子奉納の御楯及び大宰府より陵王面大鈴等御寄進あり云々と。
十月二十一日
明治四十年八月二十六日
神殿、祝詞殿、幣殿、拝殿、神間、神庫、社務所、神橋、石華表、石門、玉垣、水舎
近津神社本伝一軸、頓野近津權現社伝一軸
八百七十坪
頓野区一円 四百戸
末社貴船神社
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