2015年 02月 04日

太祖神社 上宮 福岡県糟屋郡篠栗町若杉


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キャンプ場にあった上宮の鳥居。
ここからさらに車で上がる。
若杉観音堂下の駐車場から山道へ。
道は二つ,右手の平坦な道を選ぶ。
以前,野花撮りに来たことがあって,近いと思っていた。
が,勘違い,結構距離がある。
「若杉楽園」の看板があったのでそこから山頂方向へ。
もの凄い傾斜,息も上がる。
水も食料も持っていない,ここは山なのだ,油断した。
おまけに雨まで落ちてくる,雨具もない。
戻るにもかなりの時間がかかる。
山頂付近から鐘の音,山頂の方が近い。
雨は粉雪に変わり,少し安心。
杉の巨木が建ち並ぶ道をひたすら登る。
で,やっと見つけた階段。

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ものすごい斜度。
手すりにへばりつきながら登る。
手を離すと転げ落ちそう。

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途中,何度も休みながら辿り着く。

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太祖神社,上宮。

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太祖宮累縁起
若杉山太祖権現社は,伊弉諾尊を祝い祭るところにして相殿に天照大神,八幡大神右殿に宝満大神,聖母大神左殿に志賀大神住吉大神三座七神まします伊弉諾尊は我が国土,人民を化成し給う,祖神にまします故太祖と称し奉る。太祖神社は当郡の総社にして当村の産神なり,鎮座の始めは末詳なれども神功皇后三韓征伐の御祈りありて,凱旋の後香椎の綾杉を分ちて此の山に植え給える由は「八幡託宣集」に見えたりいと久しき鎮座なるべし,神功皇后は遂に御社を改め造らせ給い,此の山野絶頂に西に向く宮を造らせ給う
是れ異敵降伏の御為なり。
●綾杉
宮の東北十三丁ばかり下に綾杉原というところありこれ神功皇后の手折り給いし,杉のありし所なり。
太祖宮
社殿掲示縁起

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神功皇后御神像

神功皇后御神像建立趣意
神功皇后は仲哀天皇の御后にましまし三韓平定のみいくさに際し,臨月の御身を以て戦勝の祈願に御登山され,凱旋の後宇美の地で皇子(応神天皇)を御出産遊ばされ,又皇后は戦勝の御礼にこの山に西向きの御社を作らせ給う。
これ国家鎮護御為なり。
ここに太祖神霊の以降倍増の御為と由緒ふかき皇后の遺徳を顕彰し,後世に永く残さんが為,御神像を建立せしものなり。


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北山神社

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若杉山の福岡県指定文化財
若杉山は,山頂に奉祀する古い形の社である太祖神社の神体として,また中世においては修験の山として栄えたところである。
①太祖神社狛犬
(昭和三十二年八月十三日有形民俗文化財指定)
阿形(子持獅子)と吽形(毬取獅子)の二体よりなり,平安時代末期より鎌倉時代初期に中国の宋より伝来したものと伝えられる石造の宋風狛犬である。
像高約四八センチメートル高さ約一三センチメートルの方形の台座にのっている。(九州歴史資料館保管)
②木造不動明王立像
(昭和三十二年八月十三日有形民俗文化財指定)
桧材の寄木造りによる室町時代初期頃の作品で,福岡市呉服町にあった旧入定寺の像であると伝えられる。
像高六五センチメートル  (若杉金剛頂院 蔵)
③太祖神楽
(昭和三十五年三月十九日無形民俗文化財 指定)
期日 毎年四月十四日・十月十六日(夜)
場所 太祖神社下宮の神楽殿にて奉納
舞神楽と面神楽から構成されている出雲系の神楽で特に勇壮,荘重な激しい舞い方をともなう「四剣の舞」は舞神楽としてはめずらしい。
④若杉の杉
(昭和五十三年三月二十五日天然記念物指定)
平成二・三年の二度にわたる台風の被害を受け現状の形になった。

一号杉 根回り 十四・二メートル  胸高回り 八・四メートル   樹の高さ 二九・〇メートル
二号杉 根回り 十五・〇二メートル 胸高回り 一〇・一〇メートル 樹の高さ 三〇・〇〇メートル

本殿脇掲示板

太祖神社狛犬画像:篠栗町歴史民俗資料室 

縣社 大祖神社 粕屋郡勢門村大字若杉字権現(上宮)石ヒシギ(下宮)
祭 神
寳滿大神,天照皇大神,八幡大神,伊弉諾命,志賀大神,住吉大神,聖母大神
由 緒
祭神伊弉諾命は神代よりの御鎮座なり其鎮座し給ふ由緒は深遠にして比類稀なる舊社にて國土を化成し萬民の始祖とましますが故に(若杉大祖神社は伊弉諾命を祭りし事は八幡託宣集神祇の秘抄等参照)神功皇后三韓御征討の節香椎宮にて大臣武内宿禰を召して異敵討伐の御廟算あらせられし給ひしに,能く諸神を祈り祭り給へと神託有りしかば則ち天神地祇山神海神まで盡く祈り祭り給ひ,中には此伊弉諾命へは御祈誓を込め給ひ御手つから本社の御神木を手折り鎧袖に納め御征討ありければ顕著なる御神明の冥助を得たまひ,刄に血ぬらずして凱旋の後,御身の守に持たせ給ひし杉の枝蒼色を變ぜざりければ香椎宮の社前にさして後葉のしるしと誓ひたまひけるに其事空しからず枝葉茂り繁茂す(今の綾杉なり分杉の名も是より起こる後世若杉と云ふは訛れり)皇后終に報賽として山頂に社殿を改造し給ひしを始とし,上古より神徳顕著にして上下の尊崇厚き神社なり中古に至り伊弉諾命を中座とし右側に八幡大神・聖母大神・寳滿大神を祭り,左側には天照皇大神・志賀大神・住吉大神を祭れり。聖武天皇仏法に帰依し給ふ事深ければ天下の大社に宮寺を立て神仏混合に祭らせ給ふや,此時當山にも多くの宮寺を建てられ,其寺號を延年寺・大祖寺三蔵院と云ひ,後には寺家益々繁盛し左谷(今に佐谷村と云ふ)右谷(今の若杉村と云ふ)の両所に別れて三百有餘の僧房あり,神田も當郡各地に三百有餘町ありしも天正兵亂以降三百餘の坊舎悉く灰燼となり,三百有餘町の神田も悉く散失し復た再興の擧なかりき。
慶長五年黒田長政公當國を領せしより,神田寺領の事は皆先國主の例に隨はせられ,當社にも神田を附せらる,然るに荒廢の久しき一旦社頭を守るものなきを愁ひ竃門山龜石坊有辨と云ふ者をして若杉村に居らしめ,右谷の法頭職の居たりし廃寺を再興して是に住せしめ當社の祭祀を司らしめ,社殿修繕及改築の事は一切藩主黒田家より累世御擧行ありて粕屋郡の宗廟とし,上下の崇敬最も厚く社殿改築其他一切祭祀等は舊粕屋郡四十八箇所より之を行ひきたりしも,明治維新神仏混祭を禁ぜられ明治五年十一月三日郷社に定められ,明治二十九年五月四日縣社に列せらる。
例祭日
十一月七日
神饌幣帛料供進指定
大正元年十一月一日
主なる建造物
本殿,弊殿,拝殿,社務所(以上上宮)
本殿,弊殿,拝殿,神楽殿,社務所,神饌所,水屋(下宮)
主なる寶物
縁起一巻
境内坪数
二萬九千坪
氏子区域及戸数
五十三戸
境内神社
北山神社(大國主神,加茂明神)
日吉神社(大山咋大神)

帰りはもう一つの道を下りる。
無事帰られました。

空 sora そら:太祖神社 下宮  

Panoramio 石津安信:Explorer



福岡県糟屋郡篠栗町若杉
January 12,2015

NIKON D3S




by sora07jp2000 | 2015-02-04 06:08 | 神社 | Trackback | Comments(0)
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